ハルとミキちゃん[前編]

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ボクが大学に入学したとき、白いブラウスにタイトなジーンズを穿いて、腰まである長い黒髪を靡かせて、颯爽とキャンパスを歩く先輩がいた。
小さめのヴィトンのバッグを肩から提げて、バインダーで纏めたテキストを持って歩く姿は、どんなドラマの中の主人公よりも格好良かった。

「ちょっと、キミ」

ある日、校門をくぐったところでそのお姉さんに呼び止められると、ボクは思わず後ろを振り返った。
後ろには誰もいない。
ボクはお姉さんの方に改めて視線を戻し、少し首を傾げながら自分を指差すと、「そう、そこのキミ」と言ってお姉さんは頷いた。

「ボクですか?」

「ボク以外に誰もいないことは、今振り返ってみて確かめたんじゃないの?」

強烈な言葉のカウンターパンチを浴びた。
ボクがバツの悪そうな顔をするとお姉さんは、「新入生でしょ?」と訊いてきた。
コクリとボクが少しだけ頷くと、「ねぇ、私たち、どこかで会ったよね?」と言い出した。

(えっ?こんな綺麗なお姉さんがナンパ?しかも学校で?)

ボクが露骨に驚いて見せると、「あ・・・、そういうのじゃないから」ときっぱり否定された。
少し気味が悪くなって、その場を立ち去ろうと校舎に向かって歩き出すと、お姉さんが後ろからついて来た。
歩きながらお姉さんが質問を重ねる。

「ねぇ、どこの高校?」
「中学は?」
「どこに住んでるの?」

これが普通のお姉さんだったら無視してしまうのだろうけれど、いつも綺麗だなと思っていた人だったからつい答えてしまった。
するとお姉さんはボクの行く手を塞いで・・・。

「ハル?」

そう訊いてきた。

ボクは、思わず立ち止まった。
顔を上げてお姉さんを見てみると真っ直ぐにボクのことを見ていた。
長くはないボクの人生の中で、“タカハル”という名を『ハル』と呼んだことのある人はひとりだけだ。

「ミキちゃん?」

長い間忘れていた名前が思わず口をついて出た。
途端にお姉さんの端正な顔が笑顔でいっぱいになって、「ハルだよね?ハルぅ」と言って抱き締められた。

(うわ、公衆の面前で・・・)

最初は周りの人の目が気になったが、じきにお姉さんの胸がボクの胸に当たっていることの方が気になった。

ミキちゃんとは父親同士が同じ会社で働いていて、小学校の頃、山の中腹にある同じ社宅に住んでいた。
小学校までは、山を下りて歩いていく結構な道程で、集団登校が義務付けられていた。
ボクは小学校1年生から3年生の時まで、同じ社宅に住んでいる年長さんのミキちゃんに連れられて登下校をしていた。
ミキちゃんはボクを本当の弟のようによく面倒を見てくれて、ボクはそんなミキちゃんに子供なりの淡い恋心を抱いていた。

学校の帰りにはミキちゃんとはよく道草をくって、近くの池でザリガニを釣ったり、小川でトンボの幼虫のヤゴを採ったりして遊んでいた。
そういえば、ウシガエルのオタマジャクシを捕まえて、しばらく飼っていたが、死なせてしまったことがあった。
あんなに可愛がっていたのに、死んだ途端に気持ち悪くなって近所の小川に捨ててきたら、母親にこっぴどく叱られた。

「きちんと埋めてあげなさい!」

そう言われて、雨の中を死んだオタマジャクシの骸を拾いに言って、泣きながら空き地で穴を掘っていたら傘を差し出して手伝ってくれたのがミキちゃんだった。
雨の中、ひとつの傘の中で両手を合わせて拝んだ後、ボクたちは社宅の粗大ゴミ置き場に行って雨をしのいだ。
ミキちゃんはびしょ濡れのハンカチでボクの顔を拭いてくれて、手や足についた泥を拭ってくれた。
二人でひとつの傘に入っていたので、雨に濡れたミキちゃんのシャツがちょっとだけ透けて見えていたのを覚えている。

その時、ミキちゃんがクンクンと鼻を鳴らしてボクの手の匂いを嗅いだ。
死んだオタマジャクシの匂いでもするのかなと思っていたら、今度はボクの頭の匂いを嗅いで、「ハル、ちゃんとお風呂で頭洗ってる?」って言われたのを鮮明に思い出した。

(うわ、嫌なこと思い出しちゃった・・・)

ミキちゃんが中学に上がる前に、お父さんの転勤でどこかに引っ越してしまったので、ミキちゃんの顔は忘れてしまっていたが、幼心にも『頭洗ってる?』のひと言はボクのトラウマとなって、それ以来大嫌いだったお風呂にも自分から入るようになって、今では朝のシャワーを欠かさない。

ミキ「懐かしいねぇ、何年ぶりぃ?」

少しはしゃいだ感じのミキちゃんの声で現実に引き戻されたボクは、改めてミキちゃんの顔をまじまじと見つめた。

(ミキちゃんって、こんな顔してたんだ・・・)

ミキ「私の顔に穴が開いちゃうよ」

ミキちゃんがそう言って笑ったところで再び我に返った。

ミキ「ねぇ、ハル、今日の講義は何時まで?」

ボク「今日は午前中だけですけど・・・」

ミキ「じゃあ、お昼に学食で待ち合わせでいい?」

ボクが小さく頷くのだけ確かめると、ミキちゃんは踵を返してボクが目指していたのとは別の校舎に向かって歩いていった。
呆然とミキちゃんの後ろ姿を見送っていると、後ろからボクの背中を肘で突付いたヤツがいた。

「今の誰?」

同級生の柴田に訊かれたが、ボクは曖昧な返事をして、そのまま目的地の校舎へと向かった。

大学に入学して二ヶ月、お姉さんのことがなんとなく気になっていたのは、お姉さんが綺麗で格好良かったからか、実は知り合いだったからなのか?
どっちだろうと思いながら講義を聞いていると、あっという間にお昼の時間を迎えた。
お姉さんは構内でも結構な有名人だったから実はフルネームまで知っていたのに、どうしてミキちゃんと結びつかなかったのだろう。
子供の頃は、女の子の顔なんて気にしてなかったからかな。

でも、雨に濡れたシャツから透けて見えていたおっぱいらしきものだけは、記憶として鮮明に残っていた。
ミキちゃんが引っ越していく時、ミキちゃんはボクを件のゴミ置き場に連れて行って、唇が半分だけ重なるようにしてキスをしてくれた。
どうしてそうなったのかは覚えていない。
それはボクのファーストキスで、ミキちゃんのことは大好きだったはずなのに、ミキちゃんと別れて家に戻った時、ボクは洗面所で口の端に石鹸をつけて洗った。
ボクはその頃“潔癖症”で、親の食べかけた物も口にすることができず、中学に入ってからも友達同士でのペットボトルの回し飲みや、水筒のお茶を分けてもらうのも苦手だった。

お昼時の学食は混んでいて、ミキちゃんの姿を探したが、どこにも見当たらなかった。

ミキ「ハールっ」

後ろから声を掛けられて振り返るとミキちゃんが立っていた。

ミキ「混んでるから、他へ行こうか?」

そう言われて首だけを突き出すように軽く頷くと、ミキちゃんは構内の駐車場に向かって歩き始めたので、ボクは慌てて追いかけた。
何台も停まっている車の前を足早に通り過ぎて駐輪場近くまで来ると、ミキちゃんはメタルグレイのバイクの前で立ち止まった。
そして鍵を取り出すと、バイクから真紅のメットを取り外してボクに投げて寄こした。
バイクのタンクの横に『Ninja』と書いてあって、バイクに詳しくないボクでもそれが原付ではないことは一目で分かった。

ミキ「すぐそこだけど、被っておいて」

そう言われたけれど、あまりにも意外な展開に固まっていると・・・。

ミキ「ほら、こうして・・・」

メットをボクの手から取って頭に被せようとしたところで笑い出した。
ミキちゃんのメットはボクの頭には小さすぎて、帽子のようにつっかえてしまった。

ミキ「ハル、結構、頭大きいんだね!」

(ミキちゃん、ストレート過ぎて痛いよ)

気にしていることをグサリと言われて、ボクはちょっと落ち込んだ。

ボク「ミキちゃん、世の中の人がみんなミキちゃんみたいに八頭身だと思わないでよ・・・」

ミキちゃんは大きくて白い歯を見せてメットをボクから奪い取ると、今度は自分で被ってバイクに跨がった。

ミキ「乗って」

ボク「あの、こんなの乗ったことないんですけど・・・」

ミキ「大丈夫、大丈夫」

抵抗しても無駄だと知り、ボクは覚悟を決めてカバンを斜め掛けにするとミキちゃんの後ろに跨がった。
するとミキちゃんが身体を捻ってボクの腕を取って自分の腰に掴まらせた。
掴まった瞬間、セルが回る音がして、エンジンがかかったかと思うとミキちゃんの左足がガチャリとギアを踏んでバイクは発進した。

ボク「ぎゃー、死ぬぅー」

それまでに経験したことのある、どんなジェットコースターよりも怖かった。
ミキちゃんの腰に抱きついて、と言うよりも、もう背中全体にしがみついていた。
背中に身体を密着させていたのだから、エロい、邪な感情が湧き上がって然るべきシチュエーションだったにも関わらず、ボクはただただ恐怖と戦っていた。

ミキ「着いたよ」

ボクはバイクが止まってもミキちゃんの背中にくっついたままで固まっていた。
腕をポンポンと軽く叩かれてようやく腰に回した腕を解き、バイクから降りて気がつくと、ボクたちはキャンパス内を半周して反対側のところある学食の前に来ていた。

ミキ「こっちなら空いているから」

格好良く足でスタンドを蹴り出してバイクを停め、メットをバイクに繋いで鍵を掛けると、ミキちゃんは、「行こ」と言って先に歩き出した。

ミキ「ハル、何にする?」

券売機の前でミキちゃんに訊かれて、ボクがハンバーグとスパゲッティの付いた日替わり定食のボタンを指差すとミキちゃんは、「私も」と言って二人分の食券を買ってくれた。
向かい合ってテーブルに着くと、当然のことなのだけれどミキちゃんの顔が正面に来て、なんだか照れてしまった。

(ねぇ、ミキちゃん、どうしてそんなに人の顔を真っ直ぐに見られるの?)

心の中でそんな風に思ったけど、それでも勇気を出して、できるだけミキちゃんから目を逸らさずにいると、「ハル、食べないの?」と言われて慌ててハンバーグをつっついた。

聞いてみると、お父さんの転勤で中学・高校と海外で過ごし、日本の大学に入るためにミキちゃんだけが帰ってきたらしい。
バイクと直接関係するのかどうか分からなかったけれど、なんとなく普通の女子大生と違うのが合点がいった。
抱き締められたのも、ハグというやつで他意は無かったらしい。
たったそれだけの事なのに、そうと知ると身分不相応にもなんだかガッカリしている自分がいた。

ミキちゃんはもう四年生だったので、就職先として大手会社の内定も貰っていた。
卒業に必要な単位もほとんど揃っていて、残りの学校生活は悠々自適らしい。
身の丈に合っていない学校にたまたま受かってしまい、最初から落ちこぼれそうなボクとは大違いだ。

ランチを食べ終わっても午後の間、ボクたちはずっと昔話に花を咲かせていた。
しばらく話しているうちにボクも慣れてきて、普通に話が出来るようになってきた。
綺麗な人とはしゃべっているだけで楽しい。
日も落ちて周りの学生も少なくなった頃、ボクたちはようやく学食を後にした。

バイクに跨がりながらミキちゃんが言った。

ミキ「ハル、携帯の番号、言って」

ボクが素直に番号を告げるとミキちゃんはその番号を直接自分の携帯に打ち込む。
ズボンのポケット中のボクの携帯が鳴った。

ミキ「じゃあ、またね」

そう言うとミキちゃんは軽くバイクのスロットルを回してエンジンを吹かすと、メットの裾から伸びた長い髪を風に靡かせながら走り去っていった。
ミキちゃんと再会できたのは嬉しかったけれど、三つ上の先輩というのは小学生の時の三つ違いよりも差が大きくて、とんでもなく遠い大人の女性に見えた。
着信をくれたということは『電話をしてもいいよ』と言ってくれているのだとは思ったが、何日経ってもボクからは連絡できずにいた。
すると、ミキちゃんの方から掛かってきた。

ミキ「もしもし、ハル?」

ボク「はい」

ミキ「明日、用事ある?」

ボク「いいえ、特に・・・」

ミキ「じゃあ、午前10時に中央口の改札で待ってるね」

繁華街のある駅名を一方的に告げられて、ボクの返事を待たずに電話は切れた。

(外国暮らしが長いと、こうなのかな?)

そんな風にも思ったけれど、いずれにしてもボクはミキちゃんとまた会えるのが嬉しかったので、待ち合わせにだけは遅れないように、週末の人出でごった返した駅に向かった。

(こんな人混みの中で会えるのかな?)

そんな風に思って携帯を取り出した。

ミキ「待った?」

携帯を弄っていると不意に声を掛けられて、顔を上げるとミキちゃんが目の前に立っていた。
待ち合わせの時間にはまだ少し早かったけど、ミキちゃんも時間の前に来てくれたことがなんだか嬉しかった。

ボク「あの、今日は・・・?」

遠慮がちにボクが尋ねると、ミキちゃんはさも当然のように、「デートだよ」と答えた。
少し面食らっているとミキちゃんはボクに腕組みをしてきて、歩き出すようにボクの身体を少し押した。
ミキちゃんの胸の膨らみが二の腕に当たっているのが感じられて、ボクはドキドキしていた。

こうしてミキちゃんとは学校で会うとお茶を飲みながら話をしたり、週末になるとデートに誘ってもらったりした。
ボクはそれだけで幸せな毎日を送っていた。

そんなある日、ボクが風邪を引いて寝込んでいると、ミキちゃんは心配してメールをしてきてくれた。

ミキ『ハル、学校に来てないよね?どうしたの?』

ボク『風邪引いちゃいました』

ミキ『熱は?』

ボク『三十九度くらい』

ミキ『!!!』

このビックリマークのメールが届いてから約30分後、ボクの下宿の外で大型のバイクのエンジン音がしたかと思うと、ミキちゃんが部屋に乗り込んできた。

ミキ「ちょっとぉ、ハルぅ、風邪なら、どうして連絡くれないの?」

玄関先にはちょっと怖い顔をしたミキちゃんが立っていた。

ボク「いや、心配するといけないと思って・・・」

ミキ「連絡がないともっと心配するじゃないの!」

ミキちゃんはブーツを脱いで勝手に上り込んできたかと思うとボクの枕元で跪いて、ボクのおでこに自分のおでこを当ててきた。
息がかかるほどの距離にミキちゃんの顔があって、それだけで熱が上がりそうだった。

ミキ「熱は思ったほどないみたいだけど、何か食べた?」

ボクが首を横に振ると、ミキちゃんはこれまた勝手に台所に向かうと何の遠慮もなくウチの冷蔵庫の扉を開けた。

ミキ「ハル、何にも無いじゃない!」

(うわっ、風邪で臥せっているところへいきなりやってきて冷蔵庫の中身を非難されても・・・)

そうも思ったが、心配して来てくれたのは分かっていたので申し訳なさそうに目を伏せるだけに留めておいた。
ミキちゃんはボクのところに戻ってくると、さっき枕元に置いたヴィトンのカバンだけを掴んで出て行った。
寝たままで玄関口の方を見ると、ミキちゃんのブーツが玄関に残ったままだったから、どうやらボクの靴かツッカケでも履いて出て行ったらしい。
20分経っても30分経ってもミキちゃんは帰って来ず、ボクはそのままウトウトと眠ってしまった。
ミキちゃんが持ってきてくれた風邪薬を飲んだせいかもしれない。

<続く>

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