陵辱に喘ぐ妻を見てみたい[後編]

この体験談は約 3 分で読めます。

女性は恥じらうからこそ、その羞恥心を嬲ってみたい。
私はそう思うのです(あくまでも私見です。念の為)。
私の妻はそれを持っています。
いえ、持っているように見えます。

あれだけM女的な責めを、Yからもそして私からも与えられ責められても、全裸に剥くだけで、その羞恥に堪えがたい様な苦悶をその顔に浮かべます。
(妻は、Yとは今も関係を持っています)
だからこそ陵辱してやりたくなるのです。
羞恥に悶え、喘ぐ顔を見たくなるのです。

妻は上半身が華奢ですが、腰から下、尻から腿の肉付きはかなり豊満です(Wは61ですが、Hは92あります)。
私もYも、尻の大きい女を好むのですが、妻はその部分が“卑猥”に思えるそうです。
「その部分が身体の中で、一番嫌いな部分」だとも言っています。
だからYなどは妻を犯すときは、徹底してその“尻”を掲げさせて犯します。
責めに波打って揺れ動く尻の表面が、堪らなく淫猥だと言っています。
後ろ手に拘束した指が苦悶を訴え、妻が泣き叫んでも容赦しないと言っています。
スパンキングもYの責めには必須となっているのです。
(最近は『座禅転がし』がYの責め方だそうです)

妻はその最も恥ずかしい部分を、Yに嬲られ、犯されてしまうからこそ、幾度と無くアクメを迎えるようです。
更には、このYと妻との関係を無視し続けることが最も重要だということを付け加えておきましょう。
(これには計り知れない労力が伴います)

もうYと妻は一年を超える関係ですが、私とYは徹底して妻には話していません。
私は見て見ぬふりを、そして妻もそうなのです。
この緊張感と、強烈な卑猥さ、スリルがどれほどのものか・・・。

実は最後の投稿から、それを自ら読み返しては思慮していた事が在ったのです。

それは、『妻への陵辱、その限界』について。

最後に投稿した文は、私の興奮度が如実に表れたものです。
幾度と無く読み返すうちに、その節度の無さ、文体の稚拙さが鮮明に浮き出しています。
恥ずかしい限りです。
いかに文体で、こちら側の想いを伝えることが出来るのか。
その困難さを改めて認識させられました。
視覚で、つまりそのビデオが在った為、つまりは描写のみになってしまっていたわけです。
だからこそ、三流のエロ小説の如く思えたのです。

第三者を招いてのプレイは非常に危険です。
今回、あのYも慎重に相手選びを行なったようですが、それは偶然とも言える幸運さが伴っているのです。
増してやSM等、一般的に言う変態的なプレイを見ず知らずの相手に依頼するなど、尋常ではありません。
ひとつ間違えば、妻は非常に危険な状況に追い込まれたでしょう。

私もそれなりに興奮したことは事実です。
しかし、危険な行為を犯したYには、二度と妻に近づくなと、決別に近い形をとりました。
Yは結局、私に謝罪してきました。
妻を初めて陵辱した頃は独身だった彼も、今や既婚者です。
ですが妻の身体の魅力に、今だ取り憑かれているようです。

おかしな言い方ですが、Yになら安心して妻を陵辱させる事は出来ます。
そしてそれに対する嫉妬感は未だに薄れることを知りません。
それどころか、未だ私が知らない、Yと妻だけの行為が存在するようにさえ思えます。

何故、妻の陵辱・・・この行為がこれほどまでに脳を焼くほどの興奮と嫉妬を覚えるのか、今回再認識したのです。

“妻”=“絶対的に夫一人のもの”

このタブーを打ち破る行為。
そしてその妻こそ、貞操観念を持った気品在る婦人でなければならないのです。
だからこそ、それを汚された時には例えようの無い、憤怒、嫉妬、興奮を得ることが出来るのです。
見ず知らずの男でも、悶え、嗚咽を放っていた妻ですが、これが常用手段となれば、私の妻ではなくなってしまう観念が発生します。

私が「笑顔で陵辱される女に興味は無い」と、いつか書かせて頂いた意味は、そこに在るのです。

私はYとの結束を固める意味も含め、先日妻を再度自宅で陵辱させました。
その行為は私のこの歪んだ欲望を満たすには、十分過ぎるものでした。

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