戦争未亡人となった母の自慰行為

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母の自慰行為は、私が6年生頃になると明らかに激しくなってきました。
それまで1週間に1回程度だった回数も2回くらいに増えていったと思います。
自慰行為の内容も変化していきました。
当初は私の身体を抱え込むようにして、そのまま終わっていたようでしたが、いつの間にか、始まりの方こそ私を抱しめていましたが、少し時間が経つと私から離れ、仰向けになって行為を続けるようになりました。
暗闇の中で、肩から浴衣がはずれ、大きな乳房を母の左手がぎゅっと握っていました。
右手は股の間に深く侵入して、手首が微妙な動きを見せていました。

「ふー、ふーっ・・・」

興奮を鎮めるように呼吸を整えます。
肉欲を深く押さえ込むことによって、かえって欲望が高まることを母は本能的に知っているのでしょう。

「ああーっ」

時々、堪えきれない快感の声が母の唇から洩れました。
私のチンポも下腹部にくっ付くほどに勃起していました。
亀頭はまだ完全に皮が剥けていませんでしたが、手で引っ張ると亀頭の半分くらいまでは皮が後退するようになっていました。
オナニーを覚えたのは中学校に入学する直前の春頃でしたが、それ以前にも自分のチンポに対する興味は日に日に強くなり、1人になるとしょっちゅう右手でぎゅっと握ったり、勃起した亀頭の皮を剥こうとしたりしていました。

同時に女としての母に対する興味も強まっていきました。
母が本家から借りている畑や田んぼで野良仕事をしていて家にいない時など、私は母の浴衣に顔を埋めたり、生理用の脱脂綿などを手に取ったり、陰湿な行為をするようになっていました。

「一生懸命勉強するんですよ」

昼間の母の真面目な顔と、自慰行為に嵌り込んでいる時の淫乱な母の表情が交互に目に焼きついていました。

母は時々、茄子を自慰の道具に使っていました。
それを見つけたのは偶然でした。
母は私よりも後から起きることはありませんでした。
前の晩にどんなに激しく自慰をしても、私が朝目覚めた時にはいつもの母の表情に戻っていて、朝ご飯を作ったり洗濯をしたりしていました。

その日は前の晩から雨が降っていて、農作業に出られないことが分かっていたからでしょうか、母が珍しく布団の中にいました。
私の足元に柔らかいものが触れたのです。
手を伸ばして取ると、長さが10センチと少しありそうな茄子でした。

「お母さん、茄子がこんな所にあったよ」

「え・・・?」

「どうしてだろう?」

母の顔が急に赤くなりました。

「宗男、よこしなさい。これは食べられないから」

母は私の手から茄子を取ると、なんでもなかったかのように台所の方に茄子を投げました。
現在のように通信販売やインターネットを使って家庭の主婦でもバイブレーターを入手できる時代とは違っていました。
多くの女性は野菜や裁縫道具など身近なものを陰茎と見立ててオナニーに耽ったのでしょう。

36歳の女盛りの母は、戦中は銃後を守る日本女性の1人として、戦後になっても国に奉公した夫の帰りを待つ貞淑な妻を演じなければなりませんでした。
欲求不満に悩んでいた母でしたが、世間に対しては決して隙を見せませんでした。
それでも周囲の男たちは隠された母の欲望を見透かすかのように母に接近しようとしていました。
秩序が崩壊していた戦後の混乱の中で、性道徳は驚くほど乱れていました。
夫や恋人を戦争で亡くした女たちの面倒を見てくれる人はいませんでした。
見せかけの同情の陰で、世間は戦争未亡人に貪欲な欲望と興味を向けただけでした。
女たちも、いつまでもメソメソしていても誰も助けてくれないことを理解したようでした。
あからさまにセックスの相手を捜す未亡人もいました。
いつの間にか戦死した夫の弟と関係が出来て再婚した例などはいくらでもありました。

田舎では男たちは16歳になると青年会に、女は処女会に入らされて、大人になる為の性教育を受けたものです。
そんな若者の性の処理を戦争未亡人達が請け負うことを世間は黙認していました。
『夜這い』という風習もその一例でした。
また、再婚はしなくても、子供がいる女性は家を守るために、そのまま婚家に残るのが一般的でした。
そうした女性の中には性の処理を亡き夫の兄弟や義父、あるいは実家の兄弟に求める人もいました。
相手が肉親であれば、関係が外に洩れることはまずありませんでした。

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